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佐野日本大学中等教育学校

校長室だより

【校長室だより】

山の思い出

 「立秋」を過ぎても暑い日が続いていますが、本当に不思議なもので、我が家の周辺ではコオロギが鳴き始めています。暑いから鳴き始めるのは遅いのではないかと思っていましたが、少しずつ少しずつ季節は確実に移っていることを感じました。そういえば、日没頃の西の空が何となく秋の気配を感じさせるようになりました。

 さて、8月11日は「山の日」で祝日です。私も山は大好きで、20代から30代にかけて、よく山登りをしました。今までに、深田久弥の著書『日本百名山』のうち36の山を登っています。しかし、なかなか時間が取れないことや体力的な理由もあって、20年以上前に日光の男体山(2486m)を登ったのを最後に百名山の頂上には行っていません。

 私が山登りを好きになったきっかけは、高校1年の夏休みに、仲間と屋根型テントを持って、奥日光の中禅寺湖畔にあった千手が浜キャンプ場に行ったのが始まりでした。大学に入ってからは、夏休みを中心に仲間と一緒に山登りをしていました。以来、30代後半まで冬は除いて時間を見つけては山行していました。そんな山に登った中で、今回は「忘れられない思い出の山」について、次回は「私の大好きな山」について書きたいと思います。

 まず、私にとって「忘れられない思い出の山」ですが、大学2年生の夏に登った槍ヶ岳(3180m)です。私たちは、槍ヶ岳、穂高連峰、蝶が岳の3つを目指して上高地の奥にある徳沢園でテントを張って山行することになりました。そして最初に登ったのが槍ヶ岳でした。早朝出発してからしばらくは行けども行けども目指す槍ヶ岳はなかなか見えず、かなりバテ気味になったのを覚えています。やっと山々の間から小さく槍ヶ岳の山容が見えた時は、仲間とともに思わず「ウオー、やっと見えてきたゾ!」と歓声を上げてしまったほどです。もちろんそれからも大変な登りが続き、かなり苦労しながら槍ヶ岳に一歩一歩近づいて行きました。山頂近くの梯子付近では、登山者が多く、しばらく待たなければならず、それでもどうにか頂上にたどりつくことができました。登頂した時、感動と何とも言えない達成感、それまでの苦しさや辛さをはるかに上回る満足感が沸き起こりました。

 山頂は思いの外狭く風も吹いていました。その関係か、頂上の南側から西側にかけては雲ひとつない絶景が広がっていましたが、東側から北側にかけては濃い霧(ガス)が吹き上げていて何も見えない状況でした。私も眺めのいい所で腰をおろそうとしましたが、眺めのいい南から西側のところには既に別の登山者が座り込んでいて私の座る余地はありません。とにかく早く腰をおろして休みたいと思っていたので東側の何も見えない所に胡坐をかいてへたり込みました。多分午後2時前後のことだったと思います。やれやれとホッとしながら汗を拭いつつ心地よい風に吹かれてボーッと何の景色も見えない方を眺めていました。どのくらい経ってからでしょうか。私の座っているところからはるか先のガスの中にスーッと大きな丸い虹が一つ現れました。さらに虹の中には人影があり座っています。私は、あれっ、と思いヘアバンドを両手で触りました。虹の中の人影も両手を頭にかざしていました。何と私の姿が虹の中に映っていたのです。その時、他の登山者から「あッ!ブロッケンだ!」と声があがりました。そうしたら離れていたところにいた私の仲間も他の登山者も集まって来て「オー、ブロッケンだ!」「ブロッケンダ!」などと口々に言いながら、私の姿が映るその虹の輪を眺めていました。中には写真を撮っている人もいました。このブロッケン現象は時間にして1分くらいだったでしょうか。風と共にガスが濃淡を繰り返す中でスーッと消えていきました。まさか自分が「ブロッケン現象」に遭遇するとは思ってもいなかったので、感動し心臓が高鳴ったのを覚えています。この時はカメラを持ち合わせていませんでしたので写真に残すことはできませんでした。スマホなどない時代でしたので、今思えば残念だったなと思っています。この後、私たちは槍ヶ岳直下にある山小屋「殺生ヒュッテ」に1泊し徳沢園に戻りました。

 とにかく苦しく辛い山登りの後に、それを大きく超える喜びや感動をもたらしてくれたこの時の山行は、私の宝物の一つとして心に刻まれています。  (2025.08.08)

【校長室だより】

7月9日(Nueve de Julio ヌエべ・デ・フリオ)

 7月9日は、南米にあるアルゼンチン共和国の独立(1816年)記念日に当たります。日本から見ればまさに地球の裏側にある国ですね。実は私の好きな音楽の一つに、「アルゼンチン=タンゴ」があります。
タンゴと言えば、たいていの人は踊り(ダンス)を思い浮かべるでしょうが、私の好きなタンゴはその踊りのもとになっている演奏や歌のことです。日本では、アルゼンチンと聞くと、サッカーの強い国というのはすぐ連想すると思いますが、昔、首都ブエノス・アイレスが「南米のパリ」と言われるほどに繁栄した時代があったことはあまり知られていません。その理由の一つは、アルゼンチンが、日本から一番遠い所にある国だからかもしれません。
 私は学生時代、アルゼンチン=タンゴを演奏するサークルに所属し、<バンドネオン>という楽器を弾いていました。バンドネオンは、一種の手風琴で、アコーディオンの兄弟ともいえるリード楽器です。アコーディオンが数個のリードを複合的に用いるのに対して、バンドネオンは各音1~2のリードを用いるため澄んだ強い響きを奏でます。この独特の音色がタンゴによくマッチして、殊に鋭いスタッカートの原動力となり、またレガートにおいては、蛇腹を震わせることでセンチメンタルなフィーリングを強調することができます。この楽器はもともとドイツで生まれ、19世紀末頃にアルゼンチンに伝わったと言われていて、それまで、フルートやギターで演奏されていた草創期のタンゴにバンドネオンが導入され広く使用されるようになると、タンゴにおける花形楽器の地位を確立し、この楽器なしにはタンゴはあり得ないものとなりました。私もこの楽器に大変興味を持ち軽い気持ちでサークルに入部しました。ところが、このバンドネオンは大変複雑な楽器で、左右のボタンがバラバラに配置され、どちらも音階順にはなっていないのです。しかも、蛇腹を引いた時と押した時では異なる音が出てくるのです。大学のタンゴサークル(当時はいくつかの大学にあった)では、バンドネオン奏者のほとんどが初心者のため、大変苦労することになります。私もある程度弾けるようになるまでには大分時間がかかりました。
 アルゼンチン=タンゴは、深い「哀愁」と激しい「訴え」を持ち、極めて説得力に富んだ音楽です。飾らないストレートな心情をぶつけながら、そのほとんどが‟挫折”や‟失恋“、‟別れ”、‟死”をモチーフにしています。そのような暗い題材でありながらも、真剣な目で避けがたい運命を見つめる人間の姿がそこにあるように感じてなりません。もちろん、冒頭の「7月9日(Nueve de Julio)」は、20世紀初頭、アルゼンチンの独立記念日を祝って作曲された有名な曲ですが、明るく活き活きとした曲もたくさんあります。
 タンゴは決してブームを作らないと言われるほど地味で、それは逆に言えば潜在的に愛好者がいて、いつまでもすたれることはないだろうと思っています。実際、タンゴの愛好者ほど情熱的な研究心を持った音楽フアンはいないと感じています。しかし、最近気掛かりなのは、私の所属していたサークルが存続の危機にあるということです。その一番の原因はコロナ禍の中で新入生部員を勧誘することができなかったのが大きいようです。さらにコロナが明けてもマイナーなジャンルだけに、なかなか部員が集まらない状況もあるようです。1951年創部から70年以上経つサークルです。何とか踏ん張ってほしいと願うばかりです。
 タンゴは一生聴き続けていくだけの値打ちを持ち、奥深さを持った音楽です。是非、皆さんもそうしたタンゴの扉をたたき、その「コラソン(こころ)」に触れてほしいと思っています。(2025.7.9)

コロナ前、予餞会で教員仲間とアルゼンチン=タンゴの代表曲「La Cumparsita(ラ・クンパルシータ)」を演奏

 

【校長室だより】

文化祭(顕桜祭

 6月28日(土)に、中等・高校合同での文化祭(顕桜祭)が開催されました。この日に向けて各クラスは、計画、準備、製作そして練習など毎日遅くまで取り組んでいました。今年度のテーマは「一片の悔い無し 覚悟はいいか」でした。まず、前日には開会式が行なわれ、その後、応援団、チアリーディング部、吹奏楽部合同によるアトラクションと和太鼓部による演奏が披露されました。当日は、保護者の他、地域の小学生、中学生、高校生、一般の方々、そして本校卒業生も多数来校してくれました。まず午前中、前期課程生(1~3年生)はプラザ40で合唱発表会を行いました。クラスごとに発表しましたが、呼吸を合わせ皆で心を一つに、そして一生懸命に歌う姿には感動しました。最後は全員で「故郷」を歌いました。昔から歌い継がれている有名な曲ですが、素晴らしかったです。後期課程生(4~6年生)はクラスごとにそれぞれ工夫した出し物を行っていました。大勢の来場者があり盛況でした。また、部活動では、開会式後のアトラクションとして和太鼓部と吹奏楽部が、サイエンスホールでは管弦楽部がミニコンサートなどそれぞれ演奏を披露し、サッカー部は来校した小学生と一緒にボールを使ったゲームなども行いました。生徒一人一人が自分の役割を果たし、文化祭を大いに盛り上げていてとても嬉しく思いました。

 ところで、昨年春に立ち上げた「鉄道を語る会」も文化祭に参加しました。この会は、鉄道好きな生徒が集まって、月1回程度、放課後に校長室で1時間ほど鉄道に関する最新の情報交換や写真をはじめ鉄道に関する資料を持ち寄り、皆で語り合います。メンバーは2年生1人、4年生1人、高校から2年生1人と3年生1人、そして私も加わり総勢5人です。未公認団体ですが、メンバーを増やし、正式な部に昇格したいと思っています。

 昨年は2号棟2階の渡り廊下が展示場所でしたが、今年は教室会場が提供されました。今回は、各々が撮影した写真、イラストをはじめ、鉄道グッズ(発車ベル、ヘッドマーク、国鉄オレンジカード、駅掲示の時刻表など)を展示しました。私も、「鉄道ジャーナル」「鉄道フアン」「鉄道ピクトリアル」などの雑誌と高校時代に撮影した国鉄車両のアルバムなどを出品しました。そしてメインはジオラマです。メンバーがNゲージの模型を持ち寄り、佐日生が利用する佐野駅を再現し、JR両毛線と東武佐野線の車両を走らせました。過去に走っていた車両や貨物車なども走らせ、佐野駅前ロータリーには、本校のシャトルバスやスクールバスなど関東バスが本物そっくりに作られ、しかもロータリーをぐるぐると回っていました。どれも生徒が作成したものですが、限られた人数と準備期間の中で、よくここまで製作することができたと驚きでした。生徒達は来場者から展示品やジオラマなど様々な質問を受けていましたが、実に丁寧にわかり易く説明していました。一般の来場者の方々からは、お褒めの言葉をたくさん頂戴しました。そして何より来場した小学生が飽きずに線路を走る模型に見入っていたことが印象に残っております。とにかく、たくさんの方々に来ていただき感謝の気持ちでいっぱいです。

 生徒達にとって、日々の授業では得られない学びがあったと思います。試行錯誤を重ねながら、ひとつのものを作り上げていくことの楽しさ、仲間と協力することの大切さ、当日の来場者とのコミュニケーションなど、様々なことを体験したことと思います。このような真剣な姿勢で取り組んだことは必ず生徒の皆さんの成長に繋がっていくことでしょうし、学校生活のよき思い出になると確信しています。

 「鉄道を語る会」の生徒諸君、本当にご苦労様でした。(2025.7.5)