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佐野日本大学中等教育学校

校長室だより

【校長室だより】

 2年生の国内研修(農村、漁村体験)が新潟県上越市で7日から9日まで、1年生の国内研修(林間学校)が福島県裏磐梯で14日から16日まで、ともに2泊3日で実施されました。私も現地に行って来ましたが、生徒たちはそれぞれのアクティビティに存分に取り組んでいました。皆笑顔であふれていて、その生き生きとした姿がたいへん印象的でした。やはりこういった学校行事はとても大切であると再確認した次第です。

⇧ 2年生(漁村体験班)「海と環境問題」についての講義

⇧ 2年生(農村体験班)稲刈り

⇧ 1年生(林間学校)自然観察

⇧ 1年生 キャンプファイヤー

⇧ 1年生 昼食 ご飯&カレー作り

⇧ 1年生 昼食出来上がり

 

 さて、話は変わりますが、私は中学時代の部活動は陸上部に所属し、走り高跳びに没頭していました。皆さんも体育の授業でやったことがある人も多いでしょうし、世界陸上の中継などで見たことはあると思います。陸上競技は、リレーや駅伝などを除けば、ほぼ個人競技です。走り高跳びは、棒高跳びと同様、他の競技には見られないセットされたバーを飛び越えなければならないという目標が設定されています。ただ跳び越すだけの単純な競技に見られますが、実はたいへん奥の深い種目なのです。跳ぶためのフォームを身に付け、必要な筋肉を鍛え、バーを跳び越すイメージを心に描き、それらを何度も何度も繰り返し練習する。そして一瞬の跳躍に、それらを集約させるわけです。競技会では、この目標バーを越えるために精神を集中させます。呼吸を整え、スタートから助走、踏切のタイミング、そして集中力というように様々な要素が一つにならなければ、バーをクリアすることはできません。1つでも欠けるとまず失敗します。そのために、選手は普段から、高さの目標を設定し、毎日、繰り返し、繰り返し練習に励みます。

 他のスポーツに取り組んだ方も似た感覚があると思いますが、私にとって走り高跳びは、ある意味その後の生き方にも少なからず影響を与えたように思います。走高跳をやってよくわかったことは、焦って現実離れした高い目標を設定したり、逆に低すぎる目標では、練習に効果をもたらすことはできません。したがって、その見極めをしっかりした上で目標を設定し、練習を重ねる必要があります。その目標がクリアされたならば、もう少し高めの設定、例えば次は5㎝上げるとか3cmにするとか自分自身と相談しながら、自らの意識の向上に努めます。一つの目標達成つまりクリアしたならば、また新たな意欲や目標を生み出し、やる気を与えてくれます。当時の私の目標は地区大会を突破し県大会に出場することでした。そのためにクリアしなければならない高さはおおよそどのくらいかの目標を定めたら、あとは「継続は力なり」を信じて打ち込むだけなのです。

 人は、生きてきた過程で様々な「思考のクセ」を持っています。私が走り高跳びから学んだのはどちらかと言えばポジティブな思考のクセですが、どんな人もいろいろな思考のクセを持っています。たとえば「私は努力すればたいてのことはできるようになる」もしくは「私はどうせ何をやってもダメだ」というように。

 ネガティブな思考のクセは、心理学ではバイアスと呼ばれます。バイアスとは「偏り」のことです。日本では「色眼鏡で見る」などと言われますが、「何か」や「誰か」に対して持ってしまった「偏った見方」ですね。これは人生のどこかで、それを払拭するような体験をしない限り、なかなか外すことはできないようです。

 しかし、考えてみればバイアスを外すチャンスは、実は日常の生活の中にたくさんあるように思います。人は苦手なヒトや苦手なコトをつい後回しにします。大人も同じです。「後回し」こそ、バイアスをつくる原因であることが多い。“敵は己の中にあり”ですね。

 さて、今回の宿泊行事に続いて10月には5年生の海外研修が、11月には4年生の国内研修が、そして12月には3年生の国内研修が、それぞれ予定されており、各学年とも準備に余念がありません。特に海外研修では、事前準備を綿密に行って、無事に帰ってくることはもちろん、5年間の英語学習の成果を試す絶好の機会となります。生徒の皆さんは、普段とは違った環境のなかで、様々な体験をすると思います。安全に配慮しながら、一つひとつの体験の機会を存分に生かしてほしい。そして一回り大きくなって帰ってきてほしいと思います。

 各学年とも、万感を込めて「よき旅を!」。

                                                   (次回10月12日更新予定)

 

 

【校長室だより】

 本校では、先週、前期期末試験が終わりました。2期制の本校では、前期の通知票は10月7日(金)の終業式の日に生徒に渡されます。

 また、本日から3日間、2年生が国内短期研修に行きます。本校では、後期課程でのイギリス研修を目途に、様々な校外研修を積みますが、国内短期研修は新潟県上越市にて、農村、漁村の2コースに分かれて地元の方々から直接指導を受けながら体験学習を行います。一つひとつの体験が、生徒たちの成長の糧になることを願っています。ちなみに私もこれから現地に赴き、生徒たちの様子を見てこようと思っています。

 さて、夏休み中は、私も少し時間ができましたので、何冊か本を読みました。内田樹(うちだ・たつる)さんの「下流志向」は以前1回読み、また今回読み返しましたので、自分なりに考えたことを述べたいと思います。

 この本には副題がついていまして、それは「学ばない子どもたち、働かない若者たち」というものです。なぜ今の日本の子供たちは学ばないのか、なぜ今の日本の若者たちは働かないのか。こういうことについて深く考察した名著です。

 本の中で、学ばない子供たちの理由を解説していまして、それは「消費主体」と「労働主体」という言葉で説明されています。子供たちが社会的に認知されるために、昔は働くことが必要でした。仕事としてではなく、たとえば家庭内での小さな役割分担等ですね。たとえば庭を掃く、玄関を掃除する、食卓の配膳をするなど、子供にもできることです。簡単なことから始めて、だんだん難しいことに移っていった。そういう家庭内での労働とそれに伴う自分なりの工夫によって、そして「よくできたね。ありがとう」という年長者からの承認によって、子供たちは「社会的に認められる」ということを実感してきた。しかし、今は、社会構造的にそのような家事労働自体が激減してしまって、子供たちが労働を通して社会的に認知される機会自体がほとんど失われてしまっている。それに代わって、お金を持ってモノを買うことを通して、つまり何の他者貢献もせず、ただお金を持った消費者であるというだけで「認められてしまう」わけです。お金はもちろん親が与えます。すべての家庭がそうでないにせよ、家庭内労働(というよりお手伝い)すら行われず、お金だけを与えられる環境で育ってしまえば、そこには、労働に伴う負荷も、責任感も、工夫も、そして認められたという喜びや誇らしさも、さらには自己肯定感も育たないわけです。そしてこのことが今の日本の「学ばない子供たち」や「働かない若者たち」の、大きな原因の一つになっているのではないかと考察しています。

 そういえば、欧米の王室などでは、皇太子が幼い頃にはお小遣いなどは一切与えず、手を使い、汗を流し、他者に貢献するような仕事を経験させるそうですが、実はそこには深い意味があったのですね。

 佐野日本大学中等教育学校のコンセプトは「できるをかさねる6年間」です。少しずつでもいい、その子が今できることから始めて、一つひとつ「できる経験」を重ねていってほしいと思います。プロセスを大事にし、トライ&エラーを繰り返しながら、近道のない成長の日々を送ってほしい。今回の夏の読書から、子どもたちへの願いを込めて、そして自分自身への戒めとして、この文章を書きました。

残暑や大雨など、天候の不順も続き、また新型コロナウィルス感染症も予断を許しません。気を緩めず、その日その日を大切に過ごしていってください。                                                (次回9月21日更新予定)

【校長室だより】

 本校では、昨日で夏休みが終わり、本日から授業が始まりました。そして来週からはいよいよ前期期末試験が始まります。

 本校は二期制を採用していますので、4月から9月までを前期、10月から翌年の3月までを後期という呼び方をします。1~3年生を前期課程、4~6年生を後期課程と呼んでいますので、混同しがちになってしまいますね。

 さて、今回は「考えること」について述べてみたいと思います。

 わかりにくいよりわかりやすい方がよい。不便より便利の方がよい。遅いより速い方がよい。文明はそうやって発展してきました。私たちはその恩恵を受けて日々を過ごしています。

 先日、ある店舗を訪れた際、ドアの前で、「あれ、ドアが開かない?」と感じたことがありました。なんのことはない、自動ドアでなく、手で開ける扉だっただけです。私たちは、こんなことで軽い不愉快を感じてしまいます。また、わからないことは、ちょっとスマホで検索すれば、ほとんどのことはわかってしまいます。

 この、いつでも快適に対応してもらえる、何でもすぐ教えてもらえるといったことが、実はヒトの成長にはあまりプラスにはならない。いやプラスにならないどころか、場合によってはマイナスの働きをしてしまうということを、時には意識した方がよいな、と感じました。

 野生動物と違って、生物学的に未熟な状態で生まれるヒトは、保護者や学校、社会から「教育」を受けないと、ヒトとしてヒトの社会の中で生きていく力が養えないという宿命を背負っています。なぜなら、人間の脳は、パソコンのようなハイテクではなくローテクだからです。ボタン一つで情報がすべて入力されるのではなく、まず学び、学んだことをもとに予測を立て、試してみて、だめなら別の方法を探り、さらに学び、再び予測し、トライしてみる…。できなかったこと、どうしたらよいか見当がつかないこと、解決策を探ること、悩むこと、つまり「考えること」。そのすべてがヒトとしての成長に必要な栄養になるわけです。

 今まさに、学びの渦中にいる子どもたちも、そしてその模範となる私たち大人も、わからないこと、未知なこと、悩ましいこと、そんな問題にであった時は、すぐに答えを求めがちな時代に生きているということを思い出し、ある期間、その問題を抱えてみて、どうしたらよいか「考えてみる」。

 そんなことを少し意識してみることも必要なのでなないでしょうか(手動ドアの前で、しばし考えてしまった者として)。<次回9月7日更新予定>