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佐野日本大学中等教育学校

校長室だより

【校長室だより】

防災の日

 9月1日は「防災の日」です。そして8月30日から9月5日は「防災週間」になります。1923年(大正12年)9月1日(土)午前11時58分、突然関東南部を中心として最大震度7の大きな地震が発生しました。これが「関東大震災」です。行方不明の方々を含めて10万人以上の人たちが犠牲になりました。丁度お昼時ということもあって火を使用していたため、いたるところで火災が発生し、被害のほとんどは火災によるものだったそうです。また、戦後の1959年(昭和34年)の「伊勢湾台風」は日本列島を直撃し未曾有の大災害もたらしました。これをきっかけとして1960年に「防災の日」が制定されました。

 近年は、地震や火災、風水害が頻繁に発生し大きな被害を出しています。災害は、いつどこで発生するかわかりません。私たちはそれぞれの災害の特徴を理解し、災害を最小限に食い止める手立てや、災害が発生した時の心構え・避難の方法など<授業中、廊下等にいる時、校庭にいる時、登・下校時、休日の外出時等>それぞれの状況に応じて適切な行動を取ることが、何よりも大切です。自他の安全を確保するためには、災害から身を守る意識や態度を常日頃から身に付けておきたいものです。  (2025.9.1)

【校長室だより】

山の思い出②

 今回は私の好きな山についてです。山にはそれぞれ個性があり、登った山はどれも印象深いものばかりです。そんな中で私の大好きな山の一つが南アルプスの「甲斐駒ヶ岳(2967m)」です。日本には駒ケ岳という名前の山はいくつかありますが、その駒ケ岳の中では最も高い山になります。山容は本当に恰好がいい山で「南アルプスの貴公子」とよく紹介されています。以前、あるメーカーの<天然水のコマーシャル>のバックに映し出されていたのが「甲斐駒ヶ岳」でした。頂上付近が花崗岩で覆われているので、夏でも雪を頂いているように見えるのが特徴です。そんな「甲斐駒」を私はこれまで3度登りました。登山ルートは複数ありますが、3度とも「竹宇駒ケ岳神社」から登っていく「黒戸尾根ルート」から頂上を目指しました。このルートは日本三大急登にも数えられ、アップダウンが続く樹林帯を長時間登り、途中から鎖場や梯子が次から次に現れるかなり険しい登山道です。頂上までは9時間以上かかるので1日目は7合目を目指し、2日目に頂上へと向かいます。

 私が初めて仲間2人と「甲斐駒ヶ岳」に登ったのは大学1年生の夏でした。新宿を夜11時過ぎ発車する松本方面行きの急行「アルプス」(当時は何本も出ていて南アルプスや北アルプスへ向かう登山者が大勢利用していた)で山梨県の韮崎まで向かいます。午前2時半ごろに韮崎に着くと、今度はタクシーで登山口になる「竹宇駒ケ岳神社」に向かいます。到着後、休憩や登山の準備をしてから、午前4時くらいだったと記憶していますが、神社に無事登山ができるよう祈願してから山行をはじめました。その日は七丈小屋がある7合目を目指します。最初の30~40分くらいはまだ体が山登りに馴染んでいないためか、苦しく辛いばかりで、「今なら間に合う。引き返そうか」などと考えながら登っているうちに徐々に体が山登りモードになって行くのが感じられるようになります。

 夏の山は大抵午後には雷雨がやってきます。この時も昼過ぎたあたりから遠くで雷鳴が聞こえ始めていました。午後零時過ぎに七丈小屋に到着しましたが、疲労困憊状態で言葉も発せられないほどへとへとになっていました。それでも少しの休憩のあと早速幕営地でテントを張り雷雨に備えます。午後1時過ぎくらいだったと思いますが、いよいよ「雷様<らいさま>」がやってきました。私たち3人はテントの中でおそらく2時間ほどでしたが稲妻に慄きながら通り過ぎるのをじっと待ちました。とにかく山での雷雨の迫力は平地とは比べものになりません。高所にいる分、自分たちと同じ高さで雷鳴が轟いているようで、‟怖い“の一言に尽きます。午後3時くらいになると雨も上がり雷鳴もあっという間に遠くに去って行きました。テントを出ると、眼下に雲海が広がりその眺めには感動しました。下界の喧騒から完全に離れた別世界にいるという不思議な感覚もありました。その後は仲間と夕食を作り食べ、寝るまでの間、涼風を体に感じながら、満点の星空を眺め遠い宇宙に思いを馳せ、苦しかった黒戸尾根の登りを振り返りつつ、その苦しさを共有した仲間と心行くまで語り合いました。

 翌朝の天気は快晴で、まさに紺碧の空でした。朝食を済ませると、テントをたたみ、いよいよ「甲斐駒ヶ岳」の頂上を目指します。出発は遅めの午前7時くらいでした。私たちはまばゆい日差しを受けながら頂上へと続く稜線を登って行きました。しばらくすると森林限界を超えたのでしょうか、ハイマツが広がる景色に変わりました。しばらく花崗岩の山肌とハイマツの中を登って行くと甲斐駒ヶ岳の脇に構えている「摩利支天」が近づいてきました。その時でした。何やらカエルの鳴き声が聞こえてくるではないでしょうか。仲間も「カエルがこんなところにいるのか?」と不思議に思ったわけですが、鳴き声のする方をじっと観察していたら声の主が2~3メートル先に姿を現しました。何と「ライチョウ(雷鳥)」の親子だったのです。ハイマツなどを啄みながらゆっくりと移動していたのでした。人を恐れる様子は全くなく、幸運にもこの親子を写真に収めることもできました。その後、親子は徐々に私たちから遠ざかって行きました。

 そしてさらに登って行くと、真っ白い花崗岩に覆われている頂上に到着です。私たち3人は、頂上に鎮座する小さな駒ケ岳神社本社の祠にまず感謝し、北岳、仙丈ケ岳、鋸岳など南アルプスの名峰、八ヶ岳や北アルプスの山々、そして富士山も望むことができる大パノラマを堪能しました。頂上付近は他の登山者は少なく、私たちは記念写真を撮ったりしながらゆっくりと過ごすことができました。稜線からの心地よい風を受けながら、それまでの厳しい山行が報われたような充実した気持ちで、山頂から眺める風景は最高の気分でした。そして何よりも仲間と苦しさや喜びを共に分かち合ったことが私にとっての宝物となりました。本当に来てよかったと心から思える山行でした。(2025.8.18)

【校長室だより】

山の思い出

 「立秋」を過ぎても暑い日が続いていますが、本当に不思議なもので、我が家の周辺ではコオロギが鳴き始めています。暑いから鳴き始めるのは遅いのではないかと思っていましたが、少しずつ少しずつ季節は確実に移っていることを感じました。そういえば、日没頃の西の空が何となく秋の気配を感じさせるようになりました。

 さて、8月11日は「山の日」で祝日です。私も山は大好きで、20代から30代にかけて、よく山登りをしました。今までに、深田久弥の著書『日本百名山』のうち36の山を登っています。しかし、なかなか時間が取れないことや体力的な理由もあって、20年以上前に日光の男体山(2486m)を登ったのを最後に百名山の頂上には行っていません。

 私が山登りを好きになったきっかけは、高校1年の夏休みに、仲間と屋根型テントを持って、奥日光の中禅寺湖畔にあった千手が浜キャンプ場に行ったのが始まりでした。大学に入ってからは、夏休みを中心に仲間と一緒に山登りをしていました。以来、30代後半まで冬は除いて時間を見つけては山行していました。そんな山に登った中で、今回は「忘れられない思い出の山」について、次回は「私の大好きな山」について書きたいと思います。

 まず、私にとって「忘れられない思い出の山」ですが、大学2年生の夏に登った槍ヶ岳(3180m)です。私たちは、槍ヶ岳、穂高連峰、蝶が岳の3つを目指して上高地の奥にある徳沢園でテントを張って山行することになりました。そして最初に登ったのが槍ヶ岳でした。早朝出発してからしばらくは行けども行けども目指す槍ヶ岳はなかなか見えず、かなりバテ気味になったのを覚えています。やっと山々の間から小さく槍ヶ岳の山容が見えた時は、仲間とともに思わず「ウオー、やっと見えてきたゾ!」と歓声を上げてしまったほどです。もちろんそれからも大変な登りが続き、かなり苦労しながら槍ヶ岳に一歩一歩近づいて行きました。山頂近くの梯子付近では、登山者が多く、しばらく待たなければならず、それでもどうにか頂上にたどりつくことができました。登頂した時、感動と何とも言えない達成感、それまでの苦しさや辛さをはるかに上回る満足感が沸き起こりました。

 山頂は思いの外狭く風も吹いていました。その関係か、頂上の南側から西側にかけては雲ひとつない絶景が広がっていましたが、東側から北側にかけては濃い霧(ガス)が吹き上げていて何も見えない状況でした。私も眺めのいい所で腰をおろそうとしましたが、眺めのいい南から西側のところには既に別の登山者が座り込んでいて私の座る余地はありません。とにかく早く腰をおろして休みたいと思っていたので東側の何も見えない所に胡坐をかいてへたり込みました。多分午後2時前後のことだったと思います。やれやれとホッとしながら汗を拭いつつ心地よい風に吹かれてボーッと何の景色も見えない方を眺めていました。どのくらい経ってからでしょうか。私の座っているところからはるか先のガスの中にスーッと大きな丸い虹が一つ現れました。さらに虹の中には人影があり座っています。私は、あれっ、と思いヘアバンドを両手で触りました。虹の中の人影も両手を頭にかざしていました。何と私の姿が虹の中に映っていたのです。その時、他の登山者から「あッ!ブロッケンだ!」と声があがりました。そうしたら離れていたところにいた私の仲間も他の登山者も集まって来て「オー、ブロッケンだ!」「ブロッケンダ!」などと口々に言いながら、私の姿が映るその虹の輪を眺めていました。中には写真を撮っている人もいました。このブロッケン現象は時間にして1分くらいだったでしょうか。風と共にガスが濃淡を繰り返す中でスーッと消えていきました。まさか自分が「ブロッケン現象」に遭遇するとは思ってもいなかったので、感動し心臓が高鳴ったのを覚えています。この時はカメラを持ち合わせていませんでしたので写真に残すことはできませんでした。スマホなどない時代でしたので、今思えば残念だったなと思っています。この後、私たちは槍ヶ岳直下にある山小屋「殺生ヒュッテ」に1泊し徳沢園に戻りました。

 とにかく苦しく辛い山登りの後に、それを大きく超える喜びや感動をもたらしてくれたこの時の山行は、私の宝物の一つとして心に刻まれています。  (2025.08.08)